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 昭和28年2月22日午後6時、突如として燃えひろがった火は、たちまちにして学校全体をなめつくして、アッという間に校舎は燃えつきてしまいました。
【参考】
*当時の新聞記事
二十二日午後六時ころ釧路市富士見町七一道立釧路湖陵高等学校木造二階建千五百五十坪(校長牧野包敏氏)職員室前の外側廊下のスキ聞から出火(発見者当直教官清水不二也氏) 北東九メートルの風速に火は忽ち旧館六百六十坪(校長室、職員室、理科、生物室、一般教室)など十六教室を全焼して同六時三十分には新館三百坪(図書、被服室など五教室)に延焼、水利の便悪く改築中の平屋屋内体操場と講堂だけを残して全焼、さらに隣接の道立釧路聾学校(校長相場文夫氏)百七坪を全焼して同七時三十分ころ鎮火した。なお学籍簿は無事搬出したので、卒業及び入学には支障ないと学校側ではいっている。また隣接の湖陵高校職員寮は類焼を免れた。
原因損害調査中。
                         「北海道新聞」昭和28年2月23日付
*高井博司先生(6期・旧職員)が当時を懐古してお書きになった文章

  六年前のある日  教諭 高井博司
 

 学校の裏手の坂をかけ上ると、もう大勢の人が校具の搬出にとりかかっていた。火は見えず、真白い厚い煙が廊下を這っているのが見える丈け。手近の生物教室、化学教室の長椅子を雪中に運び出したのを憶えている。そのうち図書室の方が真赤になった。次の瞬間生物室の廊下に充満していた煙が火に変った。こうなったらもう何らなす術がない。それでも血気盛な生徒達は、愛校心とヒロイズムのかもすあやしい雰囲気に据われ、煙の中にとびこもうとするが、先生と消防署員の必死の制止にあって詮方なし。「やんぬるかな」口惜しさに歯ぎしりしながら、荒れ狂う猛火をただ挟手傍観しているのみ、燃え上る火の手にあうられて、流れる汗を拭わばこそ、阿修羅の形相物凄い。次いで火は、化学準備室の方へなめるように伸びていく、「薬品が破裂するからずっと退れ」と云う声に全員止むなく後退。時々何かの破裂する音を交えて、黄や緑の炎の発して燃え上るのを、之が本当の炎色反応だなと思い乍ら眺めていた。校舎が火の海と化し校具の搬出はもはや不可能になってしまったので、すぐ側にあった先生方の寮からの荷物運びに方向を転換した。泥靴のまま部屋に入り込み、本でも鍋でも手当り次第に持ち出した。(略)一夜明くれば一面の雪、黙々と白雪をふみしめながら、余火くすぶる学校へ辿りついた。校庭に佇んだ生徒を前にして、「校舎は焼けたが、湖陵魂は健在である。諸君よ!力を合わせてこの困難をのりきろう」と呼びかけた牧野校長の訓辞がジーンと胸にこたえた。新学期を目前にして、母校焼失の悲運に見舞われた僕らは、けなげにも、この逆境にめげず所期の目的を完遂すべきを口々に誓いあったのだった。

          「湖陵タイムス」49号(昭和34年12月5日付)