校歌の由来(昭和3年制定)
釧中13期生の担当教諭であった菅原覚也氏(本行寺4代目住職)が当時、釧中校歌の一般公募に投稿、最優秀作品として表彰され、その後、文学博士 高野辰之氏の校閲を経て正式に採用されたものである。菅原氏は昭和38年に没したが、歌詞の「五星霜」が「三星霜」に変わっただけで、湖陵高校校歌として尚歌いつがれていることに大変感謝していたという。
作曲者の信時潔氏(1887~1965)は、日本を代表する作曲界の先駆者であり作風は古典的で素朴な歌曲を多く残した。1910年、東京音楽学校本科卒業(現東京芸大)その後ドイツに留学し帰国後(1923)母校の教授となる。1942年 学術院会員・1963年 文化功労者主な作品に「海ゆかば」など、地元では、釧路市の歌や北教大釧路分校校歌がある。
一、 | 日出づる国の 北陲に 神秘を削る 丈夫の 鬨十一州に 反響して 曙光あまねし 蝦夷が原 みよ東方の 釧路崎 湖陵に立てる 我が学舎 |
二、 | 攻学の心 自治の魂 久遠の使命 胸に秘め 鈴蘭薫る 春採の 丘に微笑む 若人が 誠を雪に 類へつつ 理想は高し 阿寒山 |
三、 | 学の苑に 旦暮の 師恩を讃う 三星霜 愛ゆかしき 兄弟よ 吹雪く 曠野も荒海も 訓の道を 守りつつ 共に進まん 勇ましく |
1928年(昭和3年)当時、北海道庁立釧路中学校(釧中)で国漢を教えていた菅原覚也教諭が校歌の一般公募に投稿したもので、高野辰之(※1)が校閲の後、正式採用された。
この歌詞には校訓となった「誠・愛・友」の意識が組み込まれたもので、壙野も荒海も共に進もうという意味の歌詞に思い入れのある関係者も多い。
この歌詞は、学制改革により同校が旧制中学校(釧中)から新制高等学校(湖陵)になった後も、歌詞の3番を「五星霜」から「三星霜」に変えただけで、ほぼそのままの歌詞で現在まで歌い継がれている珍しい例として知られる。
作曲者の信時潔(※2)は、ドイツ古典派に基づいた重厚質朴な作品を多く手がけ、旭川西高など各地の校歌なども多数作曲した。
当初作曲を依頼されていたのは市立旭小学校の校歌も手がけた山田耕筰であったが、特色のある曲をという理由で、山田が信時を紹介したという。※1 高野 辰之《たかの たつゆき、1876年(明治9年)4月13日~1947年(昭和22年)1月25日》は、長野県生まれの国文学者、作詞家。1899年(明治32年)東京帝国大学で国文学を学ぶ。1904年(明治37年)文部省吏員となり、1910年(明治43年)東京音楽学校教授に。1925年(大正14年)「日本歌謡史」で文学博士(東京帝大)となる。
数多くの唱歌(文部省編尋常小学唱歌)の作詞者として知られ、近年の研究では以下の唱歌の作詞者であることが分かっている。
「故郷」(うさぎ追いしかの山)、「朧月夜」(菜の花畠に、入日薄れ)、「もみじ」(秋の夕日に 照る山紅葉)、「春がきた」(春が來た春が來たどこに來た)、「春の小川」(春の小川は、さらさら行くよ)、「日の丸の旗」(白地に赤く日の丸染めて)ほか。
また校歌では、専修大学(作曲:信時潔)、松商学園高等学校、長野県穂高商業高等学校、長野県松本県ヶ丘高等学校ほか、100校近い学校の校歌の作詞を手掛けた。
この歌詞には校訓となった「誠・愛・友」の意識が組み込まれたもので、壙野も荒海も共に進もうという意味の歌詞に思い入れのある関係者も多い。
この歌詞は、学制改革により同校が旧制中学校(釧中)から新制高等学校(湖陵)になった後も、歌詞の3番を「五星霜」から「三星霜」に変えただけで、ほぼそのままの歌詞で現在まで歌い継がれている珍しい例として知られる。
作曲者の信時潔(※2)は、ドイツ古典派に基づいた重厚質朴な作品を多く手がけ、旭川西高など各地の校歌なども多数作曲した。
当初作曲を依頼されていたのは市立旭小学校の校歌も手がけた山田耕筰であったが、特色のある曲をという理由で、山田が信時を紹介したという。※1 高野 辰之《たかの たつゆき、1876年(明治9年)4月13日~1947年(昭和22年)1月25日》は、長野県生まれの国文学者、作詞家。1899年(明治32年)東京帝国大学で国文学を学ぶ。1904年(明治37年)文部省吏員となり、1910年(明治43年)東京音楽学校教授に。1925年(大正14年)「日本歌謡史」で文学博士(東京帝大)となる。
数多くの唱歌(文部省編尋常小学唱歌)の作詞者として知られ、近年の研究では以下の唱歌の作詞者であることが分かっている。
「故郷」(うさぎ追いしかの山)、「朧月夜」(菜の花畠に、入日薄れ)、「もみじ」(秋の夕日に 照る山紅葉)、「春がきた」(春が來た春が來たどこに來た)、「春の小川」(春の小川は、さらさら行くよ)、「日の丸の旗」(白地に赤く日の丸染めて)ほか。
また校歌では、専修大学(作曲:信時潔)、松商学園高等学校、長野県穂高商業高等学校、長野県松本県ヶ丘高等学校ほか、100校近い学校の校歌の作詞を手掛けた。
※2 信時 潔《のぶとき きよし、1887年(明治20年)12月29日~1965年(昭和40年)8月1日》は、日本の作曲家。大阪府出身。
元津山藩士の外交官・牧師の子として生まれ、幼少より賛美歌に親しんだ。東京音楽学校でチェロと作曲を学び、助教授を経て同校教授となる。国民唱歌『海ゆかば』の作曲者として知られるほか、校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけ、生涯で少なくとも1000曲以上を数える。
《校歌詞の注釈》
- 北陲(ほくすい)
- 北の辺境、国境のこと。
日出ずる国の北陲、すなわち「日本の北の辺境」=北海道のこと。 - 神秘(くしび)
- 通常は「奇び」「奇霊」「霊び」と書く。奇妙、神秘、神妙なこと。人知で計り知ることができぬ不思議なさま。
神秘を削る 丈夫(ますらお=益荒男)の、すなわち「世の謎を解き明かす立派な男子」の意。 - 鬨(こえ)
- ここでの「こえ」は「鬨(とき)の声」、すなわち昔、戦場で士気の鼓舞、戦闘開始の合図のために皆で発した声で、同時に、勝利時に一斉にあげる喜びの「勝鬨」(かちどき=凱歌)であろう。
- 十一州(じゅういっしゅう)
- 「北海道」のこと。明治2年に制定された行政区画により、北海道を11ヶ国86郡に分けたことに由来している。北海道本島10ヶ国に、千島国を加えたもので、江戸時代には北海道は「蝦夷が島」の他にも「十州島」などと呼ばれていた。
- 曙光あまねし 蝦夷が原
- 曙光=夜明けの太陽の光が、蝦夷が原=北海道全土を広く照らすさま。
- みよ東方の 釧路岬
- 現在の「釧路埼(くしろざき)灯台」がある米町地区は、かつて釧中(湖陵高)のあった富士見地区から見て「西方」にあたる。ということは、この釧路岬(くしろざき)は、釧路町にある「尻羽岬」を指すものか。